Aaki Hikaru

読書・自然 / 写真・語学・ドラマについて

心地のよい支配の中で....『薬指の標本』小川洋子

誰もが一度は経験する喪失。その記憶は、年月が経っても忘れることは難しいものです。いっその事、標本にでもしませんか?

 

ご訪問いただきありがとうございます。カオルです。今回は、小川 洋子さんの『薬指の標本』の感想です。表題作『薬指の標本』と『六角形の小部屋』の2編収録。

女心を掴む濃厚な90ページです。2005年にはフランスで映画化されています。

 

小川 洋子さんの作品は、1991年に『妊娠カレンダー』が芥川賞受賞、2004年には『博士の愛した数式』が 読売文学賞本屋大賞を受賞しています。映像化されている作品も多いです。今どハマり中です。

※多少ネタバレあり。

作品

タイトル: 薬指の標本

著  者: 小川 洋子 

発  行: 新潮社

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あらすじ

薬指に怪我負い仕事を辞めて街に降りた主人公は、引き寄せられるようにある所へ辿り着く。その場所では、客が望めばどんな物であっても標本にして保管できるらしい。標本室で事務員として働き出した主人公と、標本を慈しむ標本技術士 弟子丸の話。

感想

実はこの本、小さい頃に実家で見かけたことがありました。装丁に惹かれ、手にとって眺めていたことを覚えています。先日、本屋で再会し、今では一番好きな作品です。

主人公は、徐々に謎めいた男 弟子丸に惹かれ、標本室という特殊な場所の一部になっていく。訪れる客が持ち込む依頼品の背景にある物語が、深く語られていない主人公の心情を浮き彫りにしていきます。

とても濃密に感じた作品でしたが、たった90ページです。主人公の空虚な心が、弟子丸に絡め取られ沈んでいく姿は切なく、少し共感しました。

 

-- 2人の適合 --

”失った”主人公と、それを慈しむ弟子丸の関係ってとてもシンプルですよね。

弟子丸は主人公に対して好意的ですが、どこか冷たく実験的です。体も心もされるがままになってく主人公ですが、最後には受け入れ、自ら求めていきます。

あまりにも長い時間動けなかったので、私は彼の中で、標本にされてしまったような気分だった。P48

 

ガラスに自分の姿が映っていた。まるで彼の靴に口付けしているかのようだった。P70

 

そもそも標本室は、誰もが辿り着ける場所ではないらしいのです。

この標本室に出会える人間は限られている・・・P46 弟子丸

本当に標本を必要としている人たちは、目をつぶっていてもここへ辿り着けるんです。P18 弟子丸

主人公と弟子丸の出会いは偶然ではないかもしれませんね。

 

-- 心地よい束縛 --

弟子丸は主人公に"ある"プレゼントを送り、ずっと身につけるように言います。それは、主人公にぴったりのサイズに作ってあるもので、他人が身につけることはできません。

「電車に乗る時も、仕事中も、休憩時間も、僕が見ている時も見ていない時も、とにかくずっとだ。いいね」P37

束縛って、人によっては煩わしく思うかもしれませんが、心のどこかに不安を抱えた人間にとっては安心感を得る呪文。自分は必要とされている、相手の中に居場所があると思うことが出来る。

明日も仕事がある、私は一人じゃない、誰かの役に立ちたいとか、多少のルールや価値観、未来の約束事に縛られることは精神バランスを保つために必要なことではないでしょうか。

 

 

--不自由という幸福--

自由になんてなりたくないんです。・・・・、標本室で、彼に封じ込められていたいんです。P87

どこへ向かえばいいのかわからない、一人になりたくない。そう感じました。

 

作中登場する標本達は、依頼人の痛みや恐怖といったネガティブな感情を纏った品。それらを慈しむ弟子丸にとって、主人公はどういう存在だったのか?

それは、標本のためだからだ。ここでは、標本がすべてに優先されるんだ。P74

弟子丸以外の人間は決して入ることのできない地下室。そこへ入ることこそが、本当の意味で彼に愛されることなのだと知った主人公。

地下室へ向かうのか、それとも弟子丸からのプレゼントを外して自由をとるのか。選択権は主人公にあります。

 

芸術

物語全体が静謐な空間のようでした。芸術、幻想、フェティシズム

弟子丸は主人公を裸にする時も、自分の送ったプレゼントだけはそのままにしているんです。上手く言えませんが、それに性的ないやらしさを感じないんですよね。芸術なんですよ、うん。

幻想的な世界観ですが、遠い国のどこかに存在するかもしれない、そんな距離感。

標本室や弟子丸については、ほとんど語られず謎のまま。だからこそ私の心を掴んで離さないんですよね。

ぜひ読んでみてくださいね!